ここのところ新チームに少しずつ成果が見えてきたと吉報をお伝えしているわけだが、確かに以前よりは清掃活動も単にマニュアル通りではなく気づき自らより綺麗にと言う活動ができるようになってはきたし、上靴も当たり前に整頓は手を添えるようになってもきてる。
練習内容は勿論だろうし、挨拶も今までよりはしっかりと気持ちを伝えられるようになっている。
返事も大きな声ではっきりと自らの意思で行い様々なところで気づきが増えてきている。
これは大変素晴らしいことである。今までの卒業していった学年も勿論そうであった。では本当に学び、身につくとはどういうことなのだろうか?
私が思うに学んでいる最中は仲間が居るし、明確に目標を一つにしているわけで、学びを『しなければならない』なんてこともあろう。強制的にさせられているわけではないにしろ、少し背伸びをしているケースもあるかと思う。
そこで私は以下のように考えています。
全ての縛り、何もかもが全くなくなって何もかもが自由になったとして、すべて自分の考えで活動できるようになった時、志学館で言うと部活動も終わり、志学坂を下りていく卒業後と言うことになろうか。
挨拶や返事、礼儀マナー、奉仕の気持ち、全てめんどくさい決まり事はなくなるわけです。
そこからが真価だと思うのです。
引退後、顧問の先生に気づいても気づかないふりをして挨拶をしない部活生も居ます。
野球でも同じでしょう。リバウンドではないにしろ野球道の志、坊主頭からの脱却とあり、ロン毛に早変わりする者もいます。中にはこそこそし始める生徒もいるかも知れません。さて、何故でしょう。
本当に大切なことを身につけずに自分をカモフラージュした活動をしていたのに違いありません。
全てを全てを無くしたときに、どんなことでも一つ残っていたとしたら、そのたった一つが学んだ収穫物だと思います。
その一つでもあれば少しは成長できたと言えるかも知れません。
『魔が差しそうになったとき』、『弱気になったとき』『おごりが出始めたとき』『勘違いが生まれそうになったとき』、ふとお父さんやお母さんの顔が思い浮かび、『こんなことじゃ駄目だな』とか、『こうあるべきだな』っと踏みとどまることができるかどうか、〇〇先生の顔を思い浮かべられるか、そして『〇〇先生はこんなこと言ってたなー』、『〇〇先生だったら怒られるだろうな』とか、だから『頑張ってみよう!』って《何もかも自由になったときに踏みとどまったり、前に進むことができたり、自分を戒めることができる縛りが一つでも残っているもの》が学び、身についたことだと思うんです。
今、OBOGも含め部員諸君は沢山のことを学んでいるし、身につけようと純粋に思っている。体にしみこむまで身につけるしかない。『凡事徹底』である。とことん素直であればとことん吸収力もあろう。
でも必ずこの学校を卒業し、また新たなステージに向かうわけですからそのときに志学館で、吹奏楽部で自然と身についたことを自分自身の財産として欲しいと願っている。
吹奏楽部は学びの宝庫である。しかし体に覚えさせるまではまだまだ時間がかかるから覚悟して欲しいと思う。
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