私が音楽の道を選び歩み始めるときに父が言った言葉

昭和五年生まれの父は穏やかで優しい性格であった。私が音楽に目覚めレッスンに通うようになったのは中学3年生で吹奏楽をやるために地元とは違う高校を選んだ。レッスンに通うようになり進路を決めて音楽大学を目指した。毎週ソルフェージュとピアノ、そしてトロンボーンを受験に向け学んだ。音楽の大学を目指したいと言うときに父は反対していたらしい。直接反対と言われたわけではないが母には反対だと言っていたらしい。母が私のやりたいことをやらせたいと懇願したらしい。当時我が家は土木の会社を営んでいたのでまた兄も札幌まで工業大学に行き土木を専攻した。恐らく父は2人で家業をと考えていたのかも知れない。

でも母の助言により父の許しを得ることが出来た。父はこう言った。『夜のスナックでラッパを吹くような仕事は許さないぞ』『やるからにはクラシックの世界でオーケストラにはいるか教員でもやれ』こうとも言っていた。『芸の道に行くわけだから親の死に目にはあえないかもな…』この辺に意味は余り理解は出来なかったが今となってはわかる気がする。

 

父は86歳。年輪を重ねている。何度も病気で入院し私も兄から連絡を受けることが多々あった。後悔しないためにもと滅多に帰省できないでいたが、昨年末に三日間だけ帰省することが出来た。勿論老いを感じたが、まだまだ元気で楽しい時間を過ごした。貴重な時間と空間であった。  その後も『体調を崩した』と連絡を受け、そう長くはないといつも聞かされ覚悟を決めることもあった。

 

文化祭週間の火曜日午前中の授業が終わって職員室に戻ると、私の携帯に何故か叔父から着信があった。何故に叔父から?父のことで連絡してくれたのだろう。兄はバタバタしているに違いないと思った。折り返してみると耳を疑う言葉が…

『ひろゆきか?としゆきが倒れた。』

この時点では救急搬送されて治療を受けているのかと思ったが

『どうやら手遅れで警察の検視が始まり誰も会うことが出来ないんだ』と。とにかく耳を疑った。

 

私は父から『芸の道に行くわけだから親の死に目にはあえないかもな…』と言う意味深な言葉が思い浮かんだ。

『文化祭の大切なステージを私抜きでこなせるのだろうか?』終わってからむかうか…

 

しかし私は30年近くこの仕事に打ち込むことが出来ていた。それは兄が我が家を守っていたからに他ならない。

私は幼少期土木の会社の次男坊として育ったが私の大学時代に大きな負債を抱えて倒産した。昭和五年生まれの父も今は食も細く認知の症状もあるらしい。倒産は昭和62年。(私は大学生3年生)兄と姉そして母は全て苦しい場面を目の当たりにし乗り越え今に至っている。私は何もする術すらなかった。今もそこが私の一番苦しいところである。本当に苦しい場面を背負うかのように3つ上の兄は強い責任感で鈴木家を守っていたことは間違いない。

私は縁もゆかりもない千葉で頑張るしか他なかった。我が家の屋台骨とも言える兄の死は何を意味するのだろうか?

部活のステージのみならずクラスもある。色んな想いは巡るが、はじめて本番を留守にする決断をした。

私は生徒たちに恵まれていると思うし、子供たちも成長できるはずであると自分言い聞かせ。

 

私しか母を支えることは出来ない。距離が不義理、親不孝をしてきたとも思う。私が出来ることは母を支えることしか出来ない。

 

水曜日に部員を集め事情を説明した。子供たちの顔を見ると無念でならなかったが、みんなの表情は逞しくも見えた。

安心して母を支えに行くことができた。初七日までは居られなかったが全てを全うし北海道をあとにした。

文化祭が生徒たちを大きく成長させてくれた。中等部のセレモニーや高等部もどうやら大盛り上がりだったと聞く。お疲れ様、そしてありがとうとみんなに伝えたい。

 

今、私には守るべき家族や両親と姉、そしてこのつとめを全うさせてもらっている志学館がある。そこでは吹奏楽の部員やOBOGがいる。それを支えて下さる保護者が居る。クラスの生徒も居る。授業を受けて満足げな顔をしてくれる生徒も居る。全てが私の力となり夢中にさせてくれている。生徒諸君には是非、幸せな道を歩んで欲しいと願っている。そしてご両親や兄弟姉妹を大切に大切にして過ごして欲しいと思う。

その日その日に後悔しないように、朝起きたら『おはよう』家を出るときは『いってきます。』帰るときは『ただいまー』『ありがとう。おやすみ。』当たり前の言葉を毎日しっかりと掛け合いたいものです。できればお母さんとはでがけにハグをするといい。日本人は抵抗があろうが欧米人は普通のことだ。その日その日を後悔しないためにも。

 

まだ兄貴の死は受け入れがたいが、余りにも突然で愕然としているのが正直なところだ。

私の結婚式26年前の5月5日に上京をしたのをあとに全く関東へは来たことがなかったが、昨年はじめて私が招待しこの千葉、志学館にも訪れたのだ。

野球が好きでたぬき通りから野球部の活動を見ていた。

二日間くらい一緒に過ごしたが、これが最後になろうとは。